90年代から現在までのレコードシーンを知り尽くす男、清水武順氏にインタビュー。

WRITER
Kiwamu Omae

90年代から2000年代前半にかけて、世界一のレコードショップ密集地として“レコードの聖地”とも言われていた渋谷・宇田川町にて、その象徴的な存在となったショップの一つが、現在も井の頭通り沿いに店を構えるマンハッタンレコードであるのはご存知の通り。そして、その宇田川町“レコ村”が最も盛り上がっていた時代に、マンハッタンレコードのショップマネージャーおよびバイヤーとして活躍していたのが、今回、登場してもらった清水武順氏だ。現在、CD/レコードのディストリビューションをメインとした会社「BBQ」の代表を務め、マンハッタン/レキシントン時代からの流れで人気レーベル、ストーンズ・スロウを日本に広めるなど様々な功績を残した清水氏のこれまでの経歴を追いながら、自らのレコード愛、音楽愛を語ってもらった。

――まずは清水さんが最初に音楽にどうやって深くハマっていったかを教えてください。
ロカビリー、モッズからの流れで、高校生くらいから60年代のソウルとかモータウンを聴くようになったのが最初です。高校卒業後に服飾の専門学校に通うために、福島から上京して。専門学校を出てから、2、3年はアパレルの仕事をしながら、夜は飲食のバイトをしていたんですけど、バイト代はほぼレコードに使っていましたね。その時に可愛がってもらってたのが、マンハッタンレコードの創業者の平川さん(雅夫)で。おっさんが中心のソウルコレクターの中で、双子の弟と一緒に二十歳過ぎでサザンソウルを聴いていたのを見て「お前ら、面白いな」って。

――まだ、マンハッタンが渋谷駅の近くにあった頃ですよね?
渋谷警察署の裏にあって、靴を脱いで入る店でした。先に弟がマンハッタンで働き出したんですけど、平川さんから「マンハッタンを株式会社にするからお前も入れ」って誘われて、僕も入社しました。すぐにアメリカへ買い付けに行くようになったんですけど、一時、中古盤の買い付けのためにスタッフをアメリカに駐在させたいっていう話になって。奥さんがいる人のほうが良いっていうことで、僕に白羽の矢が立って、試しに1ヶ月くらい夫婦でデトロイトに行って、向こうのレコードショップのオーナーのところでお世話になってたんですよ。それで「駐在しても大丈夫です」ってなったんですけど、ちょうどマンハッタンが宇田川町に移転したタイミングで。新譜も売るようになったから、すごく忙しくなっちゃって。「やっぱり、日本にいてくれ」って(笑)。


1993年、マンハッタン宇田川町オープン時

――宇田川町に移ってから新譜も扱うようになったんですね?
新譜をやるために宇田川町に出ようっていう話だったので、1階に新譜、2階に中古盤っていう感じで。タイミング的にはヒップホップがまさにこれからっていう感じで。マンハッタンはヒップホップのイメージが強かったので、タイミング良く弾けました。最終的にはマンハッタンとして渋谷に3店舗、大阪に1店舗、さらにホットワックスとラストチャンスレコードっていうジャズのお店もありました。


1993年のマンハッタンレコード

――レコードを売るだけでなく、自らレコードをリリースし始めたのもその頃ですよね?
株式会社にした時に社名をレキシントンにして。レキシントンとしての最初の事業がプレステージのジャズファンクのリイシューでした。全部で60タイトルくらい出したんですけど、当時、ジャズファンクのブームだったので、すごく売れましたね。その流れで、バーナード・パーディをリーダーにして、いろんなミュージシャンを集めた来日興行も2、3回やりました。その後、ロイ・エアーズのリイシューを世界に先駆けてやったり、制作ではMUROさんやニトロ(マイクロフォン・アンダーグラウンド)もレキシントンでやりました。

バーナード・パーディと清水氏

――実際、当時はお店の売り上げも凄かったと思いますが、思い出深いエピソードなどはありますか?
レコードの放出での、お客さんの並び方が半端なかったですね。整理券とかも配ってなかったので、前の日から、皆さん夜通し並んでいて。あと、当時アメリカで一番大きいレコードのディストリビューターがユニークっていうところだったんですけど、ユニークの世界中の全ての取引先の中で一番取引きしていたのがマンハッタンでした。多分、週に1万枚くらいはユニークから新譜を仕入れていたと思います。

――来日する海外のDJとかも、当時から宇田川町には結構レコードを買いに来ていましたよね?
みんな、買い方が凄かったですね。ヒップホップだけでなく、ディスコ系の12インチもすごく売れました。ニューヨークとかを除けば、ああいう専門的なお店っていうのは海外でもあまり無かったんじゃないですかね? だから、ネタを探してるような人からしてみると、かなりマンハッタンは良かったと思います。あと、すごく知識のあるスタッフもいましたし。その頃、もしかしたら日本人の知識って、世界でもかなり先を行ってたんじゃないかなって思います。今と違って、ネットの情報とかも無い時代でしたしね。


マンハッタン大阪での清水氏


ロイ・エアーズとマンハッタン元社長の平川氏

――現在のBBQでの仕事とも繋がる、ディストリビューションの事業を始めたのはいつ頃ですか?
2000年代の最初くらいに、レキシントンでCDのディストリビューション事業を始めて。それまではディストリビューターを通して、リリースされているレコードを仕入れて売っているだけだったんですけど。自らディストリビューションってなると、レーベルやアーティストと直接取引きするようになったんで、レーベルとの関係性も近くなって。そうなると当然、来日したいっていう話もくっついてきて。自然な流れでツアーを組むようになりました。

――そんな中で出てきたのがストーンズ・スロウだと思いますが、どのように関係が始まったのですか?
最初は西海岸のディストリビューター経由で商品を入れていたんですけど、実はそのディストリビューターでピーナッツ・バター・ウルフ(ストーンズ・スロウ代表)が働いていたりもしていて。直接仕入れるようになって、結構良い感じで売れていたタイミングに、毎年、フランスのカンヌで開催されてる『MIDEM』っていう音楽業界のカンファレンスで、当時、ストーンズ・スロウのマネージャーだったイーゴンと初めて対面して。そこで、とりあえずストーンズ・スロウのツアーをやろうっていう話になって。最初にピーナッツ・バター・ウルフとイーゴンを呼んで、その後にイーゴンとマッドリブを呼んで。ただ、ストーンズ・スロウのレコードは売れてたけど、公演としてのポテンシャルは全くわからない時代で。けど、やったら、会場に入れないほど人が集まりましたね。

後編:ディミトリ・フロム・パリとの出会い、BBQについて

Text & photos by Kiwamu Omae
撮影協力 HMV record shop 渋谷
清水武順 instagram

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