高地明インタビュー~70年代日本におけるブルースとレゲエ、Pヴァイン黎明期、クリスタル・トーマス

WRITER
Hajime Oishi

1975年12月に有限会社ブルース・インターアクションズとして設立、翌1976年にはレーベル運営をスタートさせると、今日までメジャー・レーベルとは一線を画すオルタナティヴなタイトルをリリースし続けてきたPヴァイン。当初はブルース専門レーベルとして立ち上がった同社は、レゲエなどカリブ音楽やアフリカ音楽の作品もいち早くリリース。非西欧圏のポピュラー・ミュージックを日本で紹介してきた先駆的レーベルでもあった。

そんな同社の創設者である日暮泰文と高地明が入れ込み、次世代のブルース・シーンを背負って立つ実力派シンガーとして太鼓判を押すのが、このたび新作『Don’t Worry About The Blues』を発表するクリスタル・トーマスだ。昨年はBLOODEST SAXOPHONE feat. TEXAS BLUES LADIES名義の『I JUST WANT TO MAKE LOVE TO YOU』にも参加して日本のリスナーもノックアウトした彼女だが、このたびBLOODEST SAXOPHONEとともにフジロック・フェスティヴァルに登場。東京でのライヴも控えている。

1970年代の日本におけるブルースとレゲエを取り巻く状況からPヴァイン黎明期の知られざるエピソード、さらにはクリスタル・トーマスへの思いまで、高地明にたっぷり語っていただいた。

――高地さんは1955年のお生まれですよね。どのような経緯でブルースにハマったのでしょうか。
当時のロックファンはみんな一緒だと思うんですが、中学の終わりぐらいに流行っていたクリームあたりから洋楽を聴きだして、そのあとにクリーデンス(・クリアウォーター・リヴァイヴァル)やザ・バンドを聴くようになったんです。当時「ニューミュージック・マガジン」(現「ミュージック・マガジン」)でブルースの特集をやっていたし、のちに会社を一緒に立ち上げることになる日暮(泰文)や鈴木啓志さんたちがやっていた「The Blues」という雑誌もあった。そういうものを入り口にしてブルースを聴くようになりました。

――日暮さんと会ったのはおいくつのころですか。
19歳ぐらいかな。日暮は会社勤めをしてたんだけど、そこを辞めて自分で輸入盤の卸しを始めたんですよ。当時は情報がないものだから、ブルースの愛好家が集まっては、お互いに買ったレコードを聴きあって情報交換していたんですよ。

――1970年代前半から中盤にかけての日本において、ブルースはどのように聞かれていたんでしょうか。
今では考えられないけど、僕が「The Blues」の編集に関わるようになった1975年ごろ、ブルースがブームになった時期があったんですよ。中村とうようさんがニューミュージック・マガジンで仕掛けたことが大きくて、各社こぞってブルースのレコードを出したり、最大手のプロモーターであるキョードー東京と「ニューミュージック・マガジン」が「ブルース・フェスティバル」(註:1974年11月に開催。ロバート・ジュニア・ロックウッド、スリーピー・ジョン・エステスらが出演)を始めたりね。関西にはウエスト・ロード・ブルース・バンドや上田正樹とサウストゥサウスみたいなブルースバンドもいて、すごく人気がありましたしね。

――高地さんのようにロック経由でブルースに入っていったリスナーが多かった?
そのパターンがほとんどだったんじゃないかな。当時は「こんなすごい音楽があったんだ」という驚きがみんなのなかにあった。当時はブルースの新譜でそう凄いものが出ていた時期ではなかったので、みんな古いレコードを探してたんですよね。未知の音楽と出会いたいという欲求が強かったんだと思う。

――1975年にブルース・インターアクションズ設立し、翌年にはレーベル部門としてPヴァインを設立されますが、最初のタイトルはアーカンソー生まれのブルースマン、カルヴィン・リーヴィの日本編集盤『Cummins Prison Farm』ですよね。
そうですね。あれは向こうで出ていたシングル音源をまとめたもので、日暮さんがメンフィスまで行って契約してきたんですよ。ブルース・ブームのとき、日本の大手レーベルがいろんなレコードを出したわけだけど、アメリカ南部で発表されていたブルースのシングル盤のなかにも素晴らしいものがたくさんあったんですよね。でも、そういうものは日本ではきちんと紹介されていなかった。だから、Pヴァインはメジャー・レーベルのカタログからこぼれ落ちたものをリリースするインディペンデントなレーベルとして立ち上げたんです。

――反響はいかがでしたか。
ブルース・ブームのおかげでブルースのレコードがある程度話題になることが多かったので、結構ありましたね。そのころはブルースを推している各地のレコード店と直接取り引きしてたんですよ。当時は今みたいに宅急便が普及していなかったので、国鉄の鉄道便で送るのが一番安かったんです。現在渋谷のタワーレコードがあるあたりに国鉄の中継基地があったので、そこまで荷物を持っていって、列車に乗せて各地に送ってましたね。

――では、高地さんがレゲエを意識するようになったのはいつごろ?
70年代中ごろ、アリゲーターやナイトホークみたいなブルースのレーベルがレゲエに興味を持つようになるんです。ジャマイカの土着的なブルースとしてルーツ・レゲエを捉えていたんだろうね。当時「ニューミュージック・マガジン」で話題になっていたのはトゥーツ&ザ・メイタルズであり、ジミー・クリフであり、ラスタファリアニズムに根ざしたもの、たとえばラス・マイケルのようなもの。ヴィヴィアン・ジャクソンの『Deliver Me From My Enemies』(1977年作)なんかも輸入盤で入ってきて話題になってましたね。

――ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズやピーター・トッシュのようなアイランドから出ていた作品以外の、ローカルなレゲエ作品も当時から日本で入手できたんですか。
熱心なレコード店がいくつかあったんですよ。レゲエ評論家としても活躍していた後藤美孝さんが勤めていた吉祥寺のジョージア、原宿の竹下通りにあったメロディーハウスとか。メロディーハウスはもともとロックのレコード店だったんだけど、アフリカものや非西欧圏の先鋭的な音楽も扱っていた。フェラ・クティの輸入盤が入ったってことで買いに行ったことを覚えてます。

――1979年4月のボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズの来日公演の影響は大きかった?
確かにいろんなメディアで取り上げられていましたよ。でもね、僕らはひねくれていたんで、ブームを斜めに見ていたところがあったんです(笑)。70年代半ばにブルース・ブームでこぼれ落ちたものをリリースしてきたように、アイランドみたいなメジャー・レーベルから出ているもの以外のレコードをきちんと紹介しようと。

――高地さんにとって当時一番インパクトのあったレゲエのアーティストは誰だったんですか。
まあ、結局はグレゴリー・アイザックスやデニス・ブラウンになっちゃいますけどね。あとはコーネル・キャンベルとか。あと、ダブだったらデニス・ボーヴェルが当時から一番好きでしたね。ブリティッシュ・レゲエという特化した鋭さのあるダブは今でも惹かれます。

Pヴァイン初のレゲエ・アルバムは?

高地明(こうちあきら)
1955年生まれ。大学生の時に日暮泰文と知り合い、当時季刊として出されていたブルース同人誌『ザ・ブルース』(後のブラック・ミュージック・リヴュー/bmr)の編集に関わる。 その後、当時世界的にも数少なかったPヴァイン・スペシャルというブルース専門インディ・レーベルをともに興し、ブルース名門チェス・レコードの日本発売権を獲得するなど、オリジナル及び日本編集LP レコードを多数制作した。

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