ブロッサム・ディアリーと親しい、鈴木ミヨさんというジャズ・ピアニストに話をうかがってきました。〜BAR BOSSA店主、林伸次〜

WRITER
林伸次

BAR BOSSAは、渋谷の喧騒を離れた裏道にあり、大人のための静かなお店。ワインを中心に手料理のおつまみや季節のチーズなどを取り揃え、BGMは店名から分かる通り、ボサノヴァが流れる。店主の林伸次氏は、CakesやNoteなどで連載を持ち、フォロワー数20,000人以上の人気文筆家でもあります。過去にはインターネットでレコードを販売する「ボッサ・レコード」というサイトも運営し、レコードに関わる知識は非常に豊富。さあ、5回目となる本記事、是非ご覧ください。


ブロッサム・ディアリーの伝記のような本を書きたいと思い、かつてブロッサムと親しくした人の話を集めているのですが、鈴木ミヨさんというジャズ・ピアニストで、現在、表参道のジャズ・バードというジャズ・ライブ・ハウスを経営している方がブロッサムに会ったことがある、ということで話をうかがってきました。

ブロッサムに会った話の前に、鈴木ミヨさんの「ジャズ人生」も昭和の日本のジャズの空気を伝える貴重なお話なので、鈴木ミヨさん自身のお話もお楽しみ下さい。

林:お生まれは?

鈴木:1947年、東京生まれです。

林:どういったきっかけでジャズピアノを弾こうと思ったんですか?

鈴木:最初はね、普通の先生にピアノを習ってたの。でも全然おもしろくなくてやめちゃってね。でもね、中学生の時、当時はAMラジオだったんだけど、ラジオからジャズが流れてきたの(※筆者注:1960、61年あたり)。今思うとデキシーかもしれないんだけど、スインギーな音楽が流れてきて、「これ、良いなあ、これが私が好きな音楽だ」って思ったの。

それでね、こういう音楽のピアノを弾きたいって思ったんだけど、当時、もちろんそういう教室とかなくてね。そしたら、近所づきあいのある息子さんがいてね。当時、米軍キャンプってあるでしょ。そのキャンプの将校さんたちが行く「オフィサーズ・クラブ」っていうのがあって、ダンスができたり食事もできたりするお店。そこに日本人バンドとしてピアノを弾いていた。

ナベサダとかそういう人たちは、みんなそこで演奏してたんだけど、なんか八重洲口に集まるらしいのね。そしたらそこに車が来て、みんなをキャンプに連れてって演奏させて帰ってくるの。それが結構良いお小遣い稼ぎになって、日本のジャズのパイオニアたちはそういうところで演奏したらしい。

それで近所の息子さんが座間キャンプで演奏しているって聞いて、「これだ!」って思って、押し掛けていって「ジャズピアニストを教えて下さい!」って言って、私が15才で彼が21才で。たぶん面倒くさいやつが来たと思ったはずなの。

でも近所づきあいの手前、断れなかったみたいで、手書きでCマイナーとかコードを書いたのを渡してくれて、「まず、そのコードを覚えなさい」って言って、覚えたら、その後は「それを適当にくずしてアドリブしなさい」って言って、それを1、2年続けたのかな。

そしたら私の方も大体、わかってくるじゃない。そしたら、その人が「もう教えることはない。もう来なくて良い」って言うの。それで、「じゃあどうしたらこれから上達するんでしょうか?」って聞いたら、「仲間を作ってバンドを作りなさい」って言って。

それは今もそう。ある程度指が動いたら、合奏するっていうことが一番大切だから。それでどうしようかなって思って。どうしたと思う?

林:楽器屋で募集の紙を貼ったんですか?

鈴木:ああ、楽器屋ね。そういう手もあったか。それほど楽器屋が普及してなかったかな。当時、私ね、女子校に通ってたから。これが共学だったらバンドやってる人たちっていたけど。でもそうじゃないから。

それで良い方法を思いついて。当時、新聞に読者欄のコーナーがあって。「戦争でなんとか部隊にいた人を探してます」とか「柴犬のメス、もらってください」とかっていうのね。それに私、投書したの。「ジャズ・ピアノやります。一緒にバンドやりませんか」って。

朝日と読売に出して、それに対するレスポンスが7つ葉書であったのね。ひとりはプロの人で、あと6人はアマチュアの人で。それで1人、サラリーマンで青木さんというベースやってる人が、祐天寺で「僕たち、集まってやってます。一緒にいかがですか?」っていう葉書があった。

でも私、当時、女子校でお父さん以外の男性となんか話したことない感じだから、母親が心配して、その青木さんに会いに行ってくれたのよ。お母さん着物着て、後で青木さんが「着物着た人がやってきたから、この人がピアノ弾くのかと思ってびっくりしちゃったよ」って言ってて。

その青木さんって人は後にすごく成功する人で映像音楽関係の事業を始めたのかな。当時は東宝でバイトしてた。

それでお母さんが「青木さん、良さそうな人だから、行ってらっしゃい」って言ってくれて、私もそのバンドにジョインした。当時、クインテットだったかな。バンジョーも入って、クラリネットの人が女性ですごく上手かったな、ストッキングを売る人で(笑)、5人編成で、デキシーっぽいの。ちょうどピアノがいなくて。

「オン・ザ・サニー・サイド」くらいの、楽譜を見れば、そく弾けるくらいの曲で、そく採用になって。高校2、3年くらいかな。会社のクリスマスパーティーなんかに呼ばれるから、その当時、そんなバンドって全然いなかったから、すごくお小遣い稼ぎにもなって。

それで「プロになるか」って言っても、当時は(※筆者注:1964、5年頃)、こういうお店(ジャズ・ライブハウス)なんてなかったのね。ピアニストが演奏するとすれば、キャバレーって知ってる?

林:はい。

鈴木:10人とか15人編成で演奏して、女性がお客さんたちと踊るの。プロになるってそういう道しか私にはなかったのね。

そのキャバレーはね、さっき言った、レスポンスが7つあった葉書で、1人プロの女性の人がいたって言ったでしょ。新宿の伊勢丹のちょっと裏の方に「ボーナス」っていうチェーンのキャバレーがあって、そこで演奏してるって言うから行ってみたのね。

キャバレーってちょっと高級なお店から安いお店まであって、そこは安い方で、私はこんなところでは演奏したくないなって思ってやめちゃった。

それで大学受験しようと思って、早稲田の心理学科に入ったの。それで入学式の時、校舎の裏の方からラッパの音が聴こえてくるじゃない。それに行っちゃったわけ。

早稲田にはいっぱいバンドがあって。タンゴとか、ニューオーリンズとか、ハワイアンズとか、ビッグバンドね。私、ビッグバンドに入っちゃった。

林:えっと、僕も早稲田でして、色々とありますよね。モダンとかニューオーリンズとか、何だったんですか?

鈴木:ハイソサエティ。なぜハイソに入ったのって言われるんだけど、私、それまで会社員たちとやってたのは、スイングジャズだったじゃない。グレンミラーとかそんなスタイルね。その後、60年代後半になってモダンジャズになるの。そういうのやってなかったし、消化不良起こしそうな難しそうな顔してやってるし、そういうのとても歯が立たないって思って。それでスイングジャズをやってるのはハイソだったから、それでハイソに入った。

そしたら例によって「即戦力」になって、ハイソが最盛期で、TBSが生で流している大学対抗バンド演奏っていうのがあって、コンテストがあって、それで3年連続優勝した。

大橋巨泉が司会で、「ナオンのピアノで」「顔が平安朝で」とか言って。「1300年前に生まれたら美人顔で」って言われて(笑)。

大学、入ってみたら難しくって。それで音楽が面白くなってきて、その頃から、こういうお店(ジャズ・ライブハウス)がアメリカから上陸して、出来始めた。

ピアノをお客さんが囲んで、お客さんが「あれやって、これやって」って言うのね。そういうのが出始めたときで。

そういうお店で「即戦力」で。新宿伊勢丹会館の上のレストランにピアニストとして就職した。3年生の時に。

そしたら私の早稲田の友達が面白がってぞろぞろ来るのね。タモリも来たしね。みんな下駄で、早稲田の学生だからお金ないから、コーラ一杯でずっといるから。そしたら不評を買っちゃって。「ミヨさんのお客さまはお金持ってないし、行儀悪いからダメだ」って(笑)。それで1年でクビになりました。

あとで聞いたら、そこは伊勢丹の役員の接待場として作ったお店だから、そこにそんなのが来たらクビになるわよね。そんなプロデビューだったの。


前編はここまでです。その後、鈴木ミヨさんはアメリカに行くことになります。アメリカでの演奏はどんな感じだったのでしょうか。続きは来月までしばらくお待ちください。

BAR BOSSA

BAR BOSSA
東京都渋谷区宇田川町 41-23 第2大久保ビル 1F
TEL. 03-5458-4185
営業時間 / 月~土 18:00~24:00
定休日 / 日、祝

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